「品川」の語源は"品の字の川"?いくつもの川が流れ込む地形をめぐる諸説


「品川」の語源には複数の説がある

「品川」という地名の由来にはいくつかの説があり、ひとつに絞ることが難しい地名のひとつとされています。代表的な説として、「品の字の川」説(複数の川が合流する形が「品」の字に見えるとするもの)、「しなの川」転訛説(信濃の人々が多く住んでいたとするもの)、そして**「しな(階・段)」地形説**(段丘地形に由来するとするもの)が知られています。

ロマンをかき立てる「品の字の川」説

最もロマンのある説とされるのが「品の字の川」説です。「品」という漢字は「口」が三つ並んだ形をしており、この地に3本の川(目黒川・立会川・その支流など)が海に注ぎ込む様子が「品」の字に見えたことから「品川」と呼ばれるようになったという説ですが、これは後世に作られた語呂合わせ的な解釈だとする見方もあり、地名学的な根拠としては慎重に扱われることが多いようです。

地形との整合性が指摘される「しな(級・階)」説

より地形的な根拠があるとされているのが「しな」説です。「しな」は古語で**段差・階段状の地形(段丘)**を意味するとされ、品川周辺は武蔵野台地の末端にあたり、海に向かって階段状に下る地形が見られます。「しなの川→しながわ」と転じたとする説で、地形と地名が一致する点が評価されているとされています。

「品河」「志奈河」など複数の古い表記

古文書を調べると「品川」は「品河」「志奈河」「志那川」など様々な表記で記されていることが分かっています。鎌倉時代の文書にはすでに「品河荘(しながわのしょう)」という表記が見られるとされ、少なくとも中世には「しながわ」という地名がすでに定着していたと考えられています。

東海道第一の宿場として栄えた品川

江戸時代、品川は東海道五十三次の**第一番目の宿場(品川宿)**として栄えたとされています。日本橋を出発した旅人が最初に宿泊する場所であり、「江戸の玄関口」として重要な役割を担っていたと伝えられ、最盛期には旅籠が90軒以上軒を連ねる賑わいを見せていたとされています。

海運の要衝としての品川

品川は江戸時代を通じて、東京湾(江戸湾)に面した港町としても機能していたとされています。伊豆・房総・相模などから物資が品川の船着場に集まり、江戸市中へと流通していったと考えられ、特に薪・炭・魚介類の集散地として賑わったとされています。「品川沖」は江戸城から望める景勝地としても知られていたと伝えられています。

幕末の砲台「台場」を生んだ品川沖

品川沖には幕末、江戸防衛のため海上砲台(台場)が建設されたとされています。ペリー来航(1853年)に衝撃を受けた幕府が急ぎ整備した施設で、「品川台場」と呼ばれたと伝えられています。現在もお台場として一部が残されているとされ、「台場」という地名の由来にもなっています。

東京でもっとも古い駅のひとつ、品川駅

1872年(明治5年)、日本初の鉄道として新橋〜横浜間が開業した際、品川駅はその中間駅として開設されたとされています。これは東京に現存する駅の中でも最古の部類に入るとされ、以来150年以上にわたって、品川は交通の要衝として機能し続けてきたと考えられています。

品川区と港区にまたがる歴史のねじれ

現在の行政区「品川区」は1932年に設置されたとされていますが、江戸時代の「品川宿」の中心部は現在の港区北品川・南品川にあたるとされています。江戸時代の地名と現代の行政区画にズレが生じているのは、明治・大正期の再編の影響だと考えられており、JR品川駅も実際には港区に所在しているという、地名に詳しくない人にとっては意外な事実が残っています。

旧東海道に今も残る宿場町の面影

品川宿の旧東海道沿いには「北品川」「南品川」の地名が今も残り、古い宿場町の面影を留めた街並みが一部に残されているとされています。旧東海道の石畳風の歩道や、江戸時代創建とされる寺社が点在しており、都市の中に歴史の層が幾重にも積み重なっている様子をうかがうことができます。複数の川が流れ込み、海に面した台地の末端という地形が「品川」という地名を生んだと考えられています。東海道の出発点として、海運の港として、そして鉄道開業の地として——品川は時代を通じて「東京の玄関口」であり続けてきた場所だといえるでしょう。