「函館」の語源はアイヌ語と箱形の館?二重の由来が交差する港町の地名


「函館」はもとは「箱館」と書いた

現在の「函館」という表記は明治以降のもので、もとは**「箱館(はこだて)」**と書かれていました。「箱」の字が「函」に変わったのは1869年(明治2年)、蝦夷地から北海道への改称と開拓使の設置に伴うものだったとされています。読み方は「はこだて」のまま変わらず、字面だけが改められました。なぜ「箱」ではなく「函」が選ばれたのかについては、「箱」の字が棺桶を連想させ縁起が悪いとされたためという説もありますが、確かな記録による裏付けは乏しく、あくまで俗説の域を出ないともいわれています。

「箱館」の語源は箱形の館

「箱館」という名前の由来として有力とされる説のひとつが、箱形をした館(たて)=防御施設があったからというものです。室町時代にあたる15世紀ごろ、河野政通という豪族がこの地に砦を築いた際、四方を囲む形状が箱のように見えたことから「箱館」と呼ばれるようになったと伝えられています。当時の「館」は石垣や天守を備えた近世の城とは異なり、土塁や堀で囲んだ簡素な防御拠点であったとされ、蝦夷地に進出した和人が海岸沿いの要所に築いた交易・防衛の拠点のひとつだったと考えられています。

アイヌ語「ウスケシ」も語源の候補

一方で、この地には和人が進出する以前からアイヌの人々が暮らしており、アイヌ語で**「ウスケシ(us-kes)」=「湾の端・入江の先端」**と呼ばれていたという説もあります。地形的に見ても、函館山の麓が湾を抱くように突き出た岬状になっている点は、この語源説と符合しているとされます。北海道には札幌や小樽をはじめ、アイヌ語の地名に漢字を当てたと考えられる地名が数多く残っており、函館もそうした地名のひとつではないかとする見方があります。和人による「箱館」という呼び名が、先住していたアイヌの人々の呼称と近い響きを持っていた可能性も指摘されており、どちらか一方に断定できない点が函館という地名の興味深いところです。

「館(たて)」は北海道の地名によく出てくる言葉

「〇〇館(たて)」という地名は北海道、とくに道南地方に多く見られます。これは中世に和人が蝦夷地南部へ進出した際に築いた防御施設「館」に由来するものが多いとされ、函館はその代表例のひとつです。室町時代から戦国時代にかけて道南各地に築かれたこうした館は「道南十二館」と総称されることがあり、函館の前身となった館もそのひとつに数えられると伝えられています。「館」は石造りの城郭ではなく、土塁や柵で囲った小規模な拠点を指す言葉で、当時の和人とアイヌの人々との緊張関係の中で各地に築かれていったと考えられています。

函館は北海道で最も早く開けた港

函館(箱館)は江戸時代後期から、松前藩の交易拠点として、また対外交易の窓口として重要視されるようになりました。1854年の日米和親条約によって下田とともに開港地に指定され、北海道で最初の本格的な国際港として歴史に登場します。その後の開港を経て函館には外国人居留地が置かれ、洋館や教会が建ち並ぶ異国情緒あふれる街並みが形づくられていきました。この港町としての発展が、函館を単なる地名以上の、北海道近代化の象徴的な存在へと押し上げていったといえるでしょう。

「箱館戦争」という幕末の戦い

1868年から1869年にかけて、戊辰戦争の最終局面として「箱館戦争」が起こりました。旧幕府軍を率いた榎本武揚らは五稜郭を拠点に新政府への抵抗を続けましたが、最終的に敗れて降伏に至ります。この戦いの中では土方歳三が戦死したことでも広く知られており、幕末から明治へと時代が移り変わる象徴的な出来事のひとつとされています。この「箱館戦争」の終結とほぼ時を同じくして地名の表記が「箱館」から「函館」へと改められたことから、両者には深い関わりがあると見られています。

「函」の字に込められた意味

「函」という漢字はもともと「箱・入れ物」を意味する字で、意味の上では「箱」とほとんど変わりません。改称の際にわざわざ同義の字が選ばれたのは、地名の音や意味を変えずに字面だけを改めるという配慮があったためと考えられています。「函」の字は現代でも「投函(とうかん)」「開函(かいかん)」「本函(ほんばこ)」といった熟語に使われており、日常生活の中でも意外と目にする漢字です。「函館」はいわば「箱館」の書き換え版ともいえる地名であり、一字の違いに明治という時代の転換点が刻まれています。

函館山は天然の要害だった

函館の地形は全国的にも珍しく、独立した山である函館山が、砂の堆積によってできた細い陸繋砂州(トンボロ)によって本土とつながった半島状になっています。この特殊な地形が、外敵の侵入を防ぐ天然の要害として機能したとされ、地名の「館(たて)」と深く結びついていると考えられています。現在は函館山ロープウェイで山頂まで登ることができ、砂州によって左右にくびれた特徴的な地形を一望できる夜景は、世界三大夜景のひとつに数えられることでも知られています。

五稜郭の名前は星形の郭から

函館のもうひとつの象徴・五稜郭は、星形(五稜星形)をした西洋式の城郭に由来する名前です。1866年に完成したこの要塞は日本初の本格的な西洋式城郭とされ、「五つの稜(角)を持つ郭(くるわ、城の外囲い)」という構造がそのまま名称になっています。星形の稜堡式築城は、大砲による攻撃に対して死角を減らすためのヨーロッパの築城技術を取り入れたものとされ、幕末の日本が西洋の軍事技術を積極的に学ぼうとしていたことをうかがわせます。現在は公園として整備され、桜の名所としても親しまれており、上空から星形の全容を眺められる五稜郭タワーも観光名所となっています。

函館は「坂の街」としても知られる

函館市内には八幡坂・二十間坂・基坂など、函館山の斜面に沿って延びる石畳の坂道が数多く残っています。これらの坂道は、開港後に整備された元町一帯の街並みとともに形づくられたもので、坂の上から港を見下ろす眺めが観光名所として親しまれています。坂の名前ひとつひとつにも、かつてその通りにあった施設や人物にちなんだ由来が伝えられており、地名だけでなく坂名を辿ることも、この街の開拓と発展の歴史を読み解く手がかりになっています。

アイヌの人々が「湾の端」と呼んだとされる地に、和人が箱形の館を築き、その呼び名が「箱館」から「函館」へと変化していった——そう考えられている一連の歴史は、確たる文献によってすべてが裏付けられているわけではありません。それでも、先住民族と和人という異なる文化が交差しながらひとつの港町を育んできた歴史は、地名の由来をめぐる複数の説そのものに色濃く映し出されているといえるでしょう。