「岡山」の地名の由来は丘の上の城?宇喜多氏が整えた城下町の歴史
「岡」+「山」で丘陵地を表す地名とされる
「岡山」の語源は、その名の通り「岡(おか)」と「山」を組み合わせたものだとされています。「岡」とは平地より一段高く盛り上がった丘陵地や小高い場所を指す古い日本語で、「山」よりも緩やかな地形を意味するとされています。つまり「岡山」は「丘のような山(小高い丘)」を表す地名だと考えられ、この地の地形をそのまま名に刻んだ言葉だといえそうです。
岡山城の築城が地名を広めたきっかけとされる
「岡山」という地名が広まった直接のきっかけは、岡山城の築城にあるとされています。現在の岡山城(烏城)が建てられた石山(いしやま)と呼ばれた小高い丘が「岡山」と呼ばれるようになり、やがて城の名称としても定着していったと考えられています。城が建つ以前、この地は「石山」や周辺の複数の地名で呼ばれていたとされ、統一した「岡山」という呼び名が広く定着したのは、城郭整備と深く結びついていたとみられています。
最初の城主・宇喜多直家による地盤固め
岡山城の最初の城主として知られるのが、戦国武将の宇喜多直家(うきたなおいえ)だとされています。1573年頃に石山に城を移したとされる直家は、備前国(現在の岡山県東南部)の覇者として頭角を現していったと伝えられています。謀略や暗殺をいとわない戦略家として語られることの多い人物ですが、岡山の地盤を固めた人物として歴史に名を残しているとされています。
宇喜多秀家による本格的な城下町整備
岡山の城下町を本格的に整備したのは、直家の子・宇喜多秀家(うきたひでいえ)だとされています。豊臣秀吉の養子(猶子)となり、五大老の一人に数えられた秀家は、岡山城を大規模に改築し、城下の都市計画を推進したと伝えられています。現在の岡山市中心部の骨格は、秀家が17世紀初頭に作り上げたとされる城下町の区割りをほぼ踏襲しているとみられています。
関ヶ原の戦いを境にした支配者の交代
1600年の関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は西軍の主力として戦ったとされていますが、敗北を喫し、八丈島に流罪となったと伝えられています。その後、岡山の支配は池田氏に移っていったとされ、岡山藩主となった池田光政(いけだみつまさ)は名君として知られており、日本最古の庶民学校のひとつとされる閑谷学校(しずたにがっこう)を創設するなど、文化的な発展に貢献したと伝えられています。
「烏城」と呼ばれる黒い天守
岡山城の天守は外壁に黒い下見板張りを用いているとされ、「烏城(うじょう)」の異名を持つとされています。対照的に、姫路城は白壁から「白鷺城(しらさぎじょう)」と呼ばれることが知られており、黒と白、対照的な二つの城が、ともに岡山・兵庫を代表する城郭として語られることが多いようです。
日本三名園に数えられる後楽園
岡山城のすぐそばにある後楽園(こうらくえん)は、水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに日本三名園に数えられるとされています。岡山藩主・池田綱政(つなまさ)が1700年に完成させたとされる回遊式庭園で、旭川の水を引き込んだ広大な水辺の景観が特徴とされています。
岡山と結びつけられる桃太郎伝説
岡山は桃太郎の伝説の舞台として語られることが多い土地です。備前・備中地方に伝わる鬼退治の民話が桃太郎のモデルとされ、吉備津神社(きびつじんじゃ)の祭神・吉備津彦命(きびつひこのみこと)が温羅(うら)という鬼を退治したという伝承が、その原型ではないかといわれています。岡山の各所には桃太郎ゆかりの地とされる場所が点在しています。
気象データが裏付ける「晴れの国おかやま」
岡山県のキャッチフレーズ「晴れの国おかやま」は、気象データに裏打ちされた表現だとされています。岡山市は年間の日照時間が長く、降水量1ミリ未満の日数が全国でも屈指の多さを誇るとされ、中国山地と四国山地に挟まれた盆地状の地形が、雨雲をさえぎる役割を果たしていると考えられています。
全国に見られる「岡山」という地名
「岡山」という地名は全国各地に存在するとされています。現在の岡山市に限らず、かつて城下町や集落の中心となった小高い丘のそばには、「岡山」の地名がつけられた場所が各地にあるとされ、地形をそのまま名前にする日本の地名文化の典型例だといえそうです。丘のある土地には、同じような発想の命名が各地で繰り返されてきたと考えられます。「岡」という丘陵地を示す素朴な地形語に「山」を重ねた「岡山」。その名は、戦国武将たちが競い合い、城下町を育て上げていったとされる歴史の舞台にふさわしい、力強くも地に足のついた言葉として、今も土地の名として受け継がれています。