「台風」の語源は?中国語・アラビア語・ギリシャ語、諸説入り乱れる由来
ユーラシアをまたぐ語源の謎
夏から秋にかけて日本列島を襲う「台風」。この言葉の由来をたどると、中国・アラビア・ギリシャと、ユーラシア大陸をまたぐ壮大な語源論争に行き着きます。日本語の「台風」が中国語の「颱風(たいふう)」に由来することはほぼ確かですが、では「颱風」やこれに対応する英語「タイフーン(typhoon)」の源流はどこか——ここから先が諸説入り乱れる世界です。
一つの嵐の名前に複数の文明の言葉が絡み合う。台風という言葉は、それ自体が海上交易の歴史の産物なのです。
日本の古語では「野分」と呼ばれた
「台風」が定着する前、日本語にはこの嵐を指す美しい言葉がありました。「野分(のわき・のわけ)」——野の草を分けて吹き渡る風、という意味です。『源氏物語』には「野分」と題された巻があり、『枕草子』にも野分の翌朝の庭の情景が描かれています。
平安の人々は、暴風を気象現象としてではなく、季節の景物として言葉にしました。「野分」は今も俳句の秋の季語として生きています。「台風」という近代の用語の足元に、千年前の文学の言葉が埋まっていることは、覚えておきたい事実です。
中国語「颱風」——日本語「台風」の直接の親
明治以降の日本の気象学は、この嵐を表す用語として中国語由来の「颱風」を採用しました。「颱」は中国南部や台湾近海の暴風を指す字で、風がぐるりと回る性質を「風」の部首とともに表しています。
戦後、当用漢字の制限で「颱」の字が使えなくなり、同じ音の「台」で代用した「台風」という表記が標準になりました。つまり「台風」の「台」に意味はなく、台地とも台座とも無関係です。表記だけ見ると由来が消えてしまった、漢字制限の影響を物語る例でもあります。
アラビア語「トゥーファーン」説
「颱風」「タイフーン」の源流候補としてよく挙げられるのが、アラビア語の「トゥーファーン(tufan)」です。「嵐・大洪水」を意味する言葉で、コーランではノアの洪水を指す語としても登場します。
中世、インド洋はイスラム商人の海でした。ダウ船で季節風を読みながら交易した彼らの言葉が、海の嵐の名前として東西に広がり、東シナ海の「颱風」やヨーロッパの「typhoon」につながった——という説です。海のシルクロードが言葉も運んだ、と考えると説得力のある筋書きです。
ギリシャ神話の怪物テュポン説
もう一つの有力候補が、ギリシャ神話の怪物テュポン(Typhon)です。テュポンは百の蛇の頭を持つ巨大な怪物で、ゼウスに戦いを挑んだ嵐の神格でした。英語で台風を意味する「typhoon」との綴りの近さから、語源として古くから言及されてきました。
ギリシャ語の「テュポン」がアラビア語の「トゥーファーン」に取り込まれ、それが東へ伝わった——という経路を想定する説もあれば、広東語の「大風(タイフォン)」がヨーロッパで「typhoon」となり、ギリシャ神話の怪物の名と綴りが混ざり合った、という説もあります。複数の言語の似た音の言葉が、互いに影響し合いながら一つの単語に収斂していった可能性が高く、「正解は一つ」と決められないのがこの語源論争の実態です。
台風・ハリケーン・サイクロン——海域で変わる名前
気象学的には、台風と同じ現象が世界各地にあります。北西太平洋で発生し一定の強さに達したものが「台風」、北大西洋や北東太平洋では「ハリケーン」、インド洋や南太平洋では「サイクロン」と呼ばれます。現象は同じで、名前は海域によって変わるのです。
ハリケーンの語源はカリブの先住民の神話に登場する嵐の神「フラカン」とされ、サイクロンはギリシャ語の「キュクロス(円)」に由来します。世界中の嵐の名前が、それぞれの土地の神話や言葉を背負っている——台風の語源の混沌も、この多様性の一部といえます。
「台風一過」と「二百十日」——暮らしの中の台風語彙
日本語には、台風と長く付き合ってきた暮らしの語彙があります。「台風一過」は台風が通り過ぎた後の抜けるような晴天を指す言葉です。「一家」と聞き間違えられやすいことでも知られますが、「一過」は「さっと通り過ぎること」を意味します。
「二百十日(にひゃくとおか)」は立春から数えて210日目、9月1日ごろを指す暦の言葉です。稲の開花期と台風シーズンが重なるこの時期を、農家は厄日として警戒しました。気象学のない時代に、経験則として台風の季節を暦に刻んでいた知恵です。
嵐の名前が運んできたもの
野分と呼んだ平安の都人、トゥーファーンを恐れたインド洋の商人、テュポンを語ったギリシャの詩人、颱風と書いた中国南部の人々。「台風」という二文字の背後には、同じ嵐に向き合った各地の人々の言葉が幾重にも重なっています。
語源が一つに決まらないのは、この言葉が単一の文明の所有物ではないからです。海を越えて吹き荒れる嵐が、海を越えて言葉を運んだ——「台風」は、気象と言語史が重なり合う、スケールの大きな語源を持つ言葉なのです。