「松本」の地名の語源は?深志から改称された城下町の歴史


「松本」の語源:松の根元・ふもとの地

「松本」という地名は、戦国末期まで「深志(ふかし)」と呼ばれていたこの地で、1582年(天正10年)に小笠原貞慶が深志城を「松本城」と改称したことに始まるとされます。辞書(コトバンク掲載の百科事典)も、この城の改称を松本の名称の始めとしています。

改称の理由として最も知られる通説は、貞慶が旧領を回復した際に「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」と述懐したことから、「待つ本懐」→「松本懐」→「松本」と略されたというものです。一方で「松の木の根元・ふもと」を意味するという説明も広く見られますが、この説を裏づける辞書や公的資料は確認できていません。

「本(もと)」は地名に多用される語

地名における「本(もと)」は日本各地に見られます。「山本(やまもと)」「橋本(はしもと)」など、物の根元やふもとを指す例が多く、「松本」の名も同じ構造に見えます。ただし上述のとおり、「松本」が松の木の根元を意味するのかどうかは資料で確認できず、「待つ本懐」説が通説として伝えられています。

深志(ふかし)という古い地名

現在の松本市があるこの地は、室町時代まで「深志(ふかし)」という地名で呼ばれていました。「深志」の語源には諸説あり、「深い葦(あし)の茂る地」「深い水辺の地」などの解釈があります。当時の松本盆地は梓川・女鳥羽川が流れる湿地帯や葦原が広がる地形で、「深志」という名はその景観を反映していたと考えられています。

深志城から松本城へ:地名改称の歴史

現在の松本城の前身は、戦国時代に築かれた「深志城(ふかしじょう)」です。1550年代に武田信玄が信濃(長野県)に進出し、この地を掌握してから深志城は武田氏の重要拠点となりました。1582年の武田氏滅亡後、小笠原氏が旧領を回復して入城した際に、城の名を「深志城」から**「松本城」**に改め、城下町の地名も「深志」から「松本」へと改称されました。

小笠原氏と「松本」への改称

小笠原貞慶(さだよし)は、武田氏に追われて失っていた信濃の旧領を回復した後、1582年に城と地名を改めました。城主の意思によって地名が改められた例として、松本はよく引き合いに出されます。別説として、小笠原宗家が分家との争いに勝ったことを記念したとする説もありますが、時代が合わないとされています。

松本城の天守は現存十二天守のひとつ

「松本城」という名で知られるようになった城の天守は、石川数正・康長父子のもとで整備が進められたとされます。築造時期は従来1593〜1594年頃とされてきましたが、2025年の柱の伐採年調査から1596〜1597年頃と特定されたとされています。天守は現在も国宝として残っています。木造の天守が現存する城は全国に十二しかなく(現存十二天守)、松本城はその中でも最古級かつ最大規模のひとつです。黒と白のコントラストが際立つ外観から「烏城(からすじょう)」とも呼ばれます。

松本盆地の地形と深志の名

松本盆地は北アルプス(飛騨山脈)と筑摩山地に囲まれた標高約600メートルの内陸盆地です。梓川や女鳥羽川が流れ、古くは湿地帯であったことが「深志」という古い地名の由来とされています。松がこの盆地に多かったことが「松本」の由来かどうかは資料で確認できていませんが、盆地の地形は、深志から松本へと城と町の名が移り変わった舞台となりました。

「松本」という地名は全国各地に存在する

「松本」は日本各地に見られる地名・名字で、長野県の松本市がその中でも最も広く知られています。ただし、他の土地の「松本」がどのような由来を持つかは土地ごとに異なるため、ここでは触れません。

松本と学問の町としての歴史

松本は江戸時代を通じて松本藩の城下町として栄え、「教育県」長野の中でも特に学問・文化への志向が強い地域として知られました。明治以降には旧制松本中学校(現・松本深志高校)をはじめとする学校が次々と設立され、「学都」としての性格を持ちます。深志高校の校名に旧地名「深志」が残っているのは、地名改称後も旧名が地域の記憶に根付いていた証拠です。

「まつもと」という読みの定着

「本」は「ほん」とも「もと」とも読まれますが、地名の「松本」では「もと」と読まれます。「山本(やまもと)」「橋本(はしもと)」と同様の読み方です。