「図々しい」の語源は?恥知らずな厚かましさを表す言葉の由来


「図」を重ねて生まれた形容詞

「図々しい」は、「図」という語を「図々」と重ね、形容詞を作る語尾「しい」を付けた言葉です。「ばかばかしい」「めめしい」「はなばなしい」と同じく、語を畳んで性質を強調する日本語の造語法に乗っています。

問題は、この「図」が何なのかです。鍵になるのは、「調子に乗る」を意味する「図に乗る」という慣用句。「図々しい」は、この「図に乗る」の「図」と同じものを重ねた言葉とする説が有力です。つまり「図々しい」とは、「図に乗りっぱなしの様子」を形容した言葉だと考えられます。

「図に乗る」の「図」は声明の節回し

では「図に乗る」の「図」とは何か。よく知られているのは、仏教の声明(しょうみょう)に由来するという説です。声明とは、お経に節をつけて唱える仏教音楽のことで、「図」はその転調の箇所、節回しの要所を指す言葉だったとされています。

難しい転調をうまく乗り切ることを「図に乗る」と言い、そこから「思い通りに調子よく進む」という意味が生まれ、やがて「調子に乗りすぎる」という否定的な意味に転じた——というのがこの説の筋書きです。お堂の読経の専門用語が、俗世間で「調子こき」を表す言葉になったとすれば、なかなか皮肉な転身です。

「図」が表す「思惑・もくろみ」

「図」にはもう一つ、「意図・思惑」という意味の系統があります。「図星(ずぼし)」は的の中心のことで、「図星を指される」は思惑をぴたりと言い当てられること。「図らずも」は「意図せずに」という意味です。

この系統で解釈すれば、「図に乗る」は「自分の思惑どおりに事が運んで調子づく」こと、「図々しい」は「自分の思惑を押し通して恥じない様子」となります。声明説と思惑説のどちらが起源かは確定していませんが、いずれにせよ「図々しい」が「図に乗る」と地続きの言葉であることは、意味の上からも自然に納得できます。

音が先、漢字が後——当て字としての「図々しい」

「図々しい」という表記については、「ずうずうしい」という音の言葉が先にあり、「図」の字は後から当てられたとする見方もあります。「ずうずう」という音そのものが、遠慮なくのさばる様子を感覚的に伝える擬態語的な響きを持っているからです。

日本語には、「ずかずか」「ずけずけ」「ずぼら」など、「ず」の音で始まる無遠慮系の言葉が並んでいます。濁音の重い響きが、デリカシーのなさのイメージと結びつく——音象徴と呼ばれるこの現象が、「ずうずうしい」の語感を支えていることは間違いありません。語源が何であれ、この言葉の説得力の半分は音が担っています。

「図太い」——同じ「図」でも褒め言葉になる

「図」を使った形容詞の仲間に「図太い」があります。こちらは「神経が図太い」のように、ちょっとやそっとでは動じない精神的なたくましさを表します。「図々しい」が一方的にマイナスの評価であるのに対し、「図太い」は「あの人は図太いから大丈夫」のように、感心や信頼を込めて使われることもあります。

同じ「図」の仲間でも、他人に迷惑をかける方向に振れれば「図々しい」、自分の芯の強さに振れれば「図太い」。紙一重の性質を、日本語は二つの言葉で丁寧に区別しています。

「厚かましい」「面の皮が厚い」との比較

「図々しい」の類義語の代表が「厚かましい」です。こちらは「厚い」に由来し、「面の皮が厚い」「厚顔無恥」と同じく、「恥を感じる皮膚が厚くて、恥が心まで届かない」という比喩に基づいています。

使い分けの感覚としては、「厚かましい」は遠慮のなさを、「図々しい」は無神経な押しの強さを、それぞれ前面に出します。「厚かましいお願いですが」は謙遜の決まり文句として成立しますが、「図々しいお願いですが」と言うと自虐の度合いが強まります。願い事の枕詞に使えるかどうかに、二つの言葉の温度差が表れています。

「ずうずう弁」とは無関係

音の連想から、東北方言の通称「ずうずう弁」と「図々しい」を結びつけたくなりますが、両者に語源的な関係はありません。「ずうずう弁」は、「じ」と「ず」などの音の区別が曖昧になる発音の特徴を指した呼び名で、厚かましさとは何の関係もない言葉です。

むしろ、この呼び名自体が方言への偏見を含みやすいことには注意が必要です。同じ「ずうずう」という音でも、片や性格の形容、片や発音の特徴と、まったく別の世界の言葉なのです。

恥の文化が磨いた語彙

「図々しい」「厚かましい」「面の皮が厚い」「ずぶとい」「あつかましい」——日本語には、恥を顧みない態度を表す言葉が驚くほど豊富にあります。裏を返せば、それだけ「恥を知ること」「遠慮すること」がこの言語文化の中で重い価値を持ってきたということです。

声明の節回しか、思惑の押し通しか。「図々しい」の語源には謎が残りますが、調子に乗ること・出すぎることへの視線の厳しさを映す言葉として、五感に訴える「ずうずう」という音とともに、今日も誰かのふるまいを言い当てています。