「ややこしい」の語源は赤ちゃん?複雑怪奇な言葉の来た道
1. 「ややこ」は赤ちゃんを意味する古語
「ややこしい」の核心にある「ややこ」は、もともと赤ちゃん・幼児を指す古語です。「やや」自体が乳幼児を指す言葉で、「子(こ)」を重ねた「やや子(ややこ)」が赤ちゃんという意味で使われていました。江戸時代の文献にも「ややこ抱き」(赤ちゃんを抱く)などの表現が見られます。
2. 「やや」は乳幼児の泣き声に由来するとも
「やや」という言葉自体の成り立ちには諸説あります。有力な説のひとつが、赤ちゃんが泣くときに発する「やー やー」という声を擬音化したものというものです。泣き声から生まれた言葉がやがて赤ちゃんそのものを指すようになったという流れは、「ままごと」の「まま(ご飯)」や「ちゃん」など幼児語に由来する日本語の典型的なパターンです。
3. 「ややこしい」は「赤ちゃんのよう」という形容
「ややこ+しい」で「ややこしい」が生まれました。「しい(し)」は形容詞を作る接尾語で、「子どもっぽい・赤ちゃんみたいだ」という意味から出発しています。赤ちゃんは言葉が通じず、何を言っても分からない——そのような「意思疎通ができない、訳が分からない」という状況を「ややこしい」と形容するようになったとされています。
4. 「訳が分からない」から「複雑だ」へ
意味の変化は段階的に起きました。「赤ちゃんのように訳が分からない」→「対処が難しい・厄介だ」→「物事が込み入っている・複雑だ」という流れで意味が拡張しました。現代語の「ややこしい」が「複雑で理解しにくい」を表すのは、このプロセスの結果です。同様に意味が変化した例として、「子どもっぽい」から「幼稚だ・未熟だ」という意味に転じた言葉が日本語にはほかにも多く存在します。
5. 上方(関西)語として広まった
「ややこしい」はもともと上方語、つまり京阪地域の言葉として広まりました。江戸(東京)では使われず、明治以降も長らく西日本中心の表現でした。標準語として全国に定着したのは昭和中期以降で、テレビ・ラジオの普及によって関西の話し言葉が全国に広まった流れの中のひとつです。
6. 書き言葉への登場は比較的遅い
「ややこしい」が書き言葉に現れるのは江戸時代以降で、それ以前は口語・話し言葉の中で生きていた表現です。近世の上方洒落本や人情本に「ややこしい話だ」「ややこしい人だ」といった用例が見られますが、文語的な文章にはほとんど使われませんでした。現代でも「ややこしい」はやや砕けた表現とされ、硬い文章では「複雑な」「煩雑な」が好まれます。
7. 「ややこしや」は能楽の有名な詞章
「ややこしや」というフレーズは、能楽師・野村萬斎が演じる狂言「附子(ぶす)」の台詞として有名です。また、伝統的な能の謡(うたい)にも「ややこしや」と繰り返すリズムが使われています。この表現は「なんとも訳が分からない、やれやれ」というニュアンスで、古くから日本人に親しまれた嘆きの言葉でした。
8. 関連語「ややもすると(ややもすれば)」との関係
「ややもすると(ともすると、つい)」の「やや」も同じ語源を持つとする説があります。「やや」には「不安定・どっちつかず」というニュアンスがあり、赤ちゃんのようにフラフラしている状態を表すところから「ともすると~しがちだ」という意味に転じたと考えられています。ただしこちらは語源の確定が難しく、研究者の間でも異論があります。
9. 「やや」には「少し・だんだん」の意味もある
現代語でも「やや改善された」「ややもすれば」のように、「やや」は「少し・わずかに」という意味で使われます。この「やや」は赤ちゃんを意味する「やや」とは別語源という説が有力です。幼児語と副詞が同じ形に収まった偶然の一致として、日本語の語彙史における面白い例のひとつです。
10. 英語には「ややこしい」に対応する一語がない
英語で「ややこしい」を表すには complicated(複雑な)、convoluted(込み入った)、tricky(やっかいな)などを使い分けますが、「訳が分からないほど複雑でどうしようもない」という感覚をひとことで表す語はありません。「ややこしい」が赤ちゃんの理不尽さを起点に持つ言葉であることを知ると、日本語の「お手上げ感」「しょうがないな感」がこの語に込められていることが分かります。
赤ちゃんを意味する「ややこ」が、いつしか複雑で手に負えないものの形容詞になった。言葉の意味の変化は、人が世界をどう感じてきたかの歴史でもあります。次に「ややこしい」と口にするとき、その奥に泣き声を上げる赤ちゃんの姿がある——そう思うと、少し可笑しみが湧いてきませんか。