「上野」の地名は高台の野原?忍ヶ岡から始まった文化の杜の歴史
1. 語源は「上(うえ)」+「野(の)」=高台の野原
「上野」の語源は、漢字そのものが示すとおり**「上(高いところ)にある野原」**です。現在の上野一帯は関東平野の縁に位置する台地の上に当たり、周囲より一段高い地形でした。その地形的な特徴を端的に表した地名が「上野(うえの)」です。
2. 古称は「忍ヶ岡(しのぶがおか)」
上野が「上野」と呼ばれる以前、この台地は**「忍ヶ岡(しのぶがおか)」**と呼ばれていました。平安時代から鎌倉時代にかけての和歌にも「忍ヶ岡」の名が登場し、しのぶ草(ノキシノブ)が生い茂る岡として知られていました。「上野」という地名が定着するのは江戸時代以降のことです。
3. 「上野国」との関係
「うえの」という地名は、現在の群馬県に当たる令制国「上野国(こうずけのくに)」とも関係があるとされます。江戸時代初期にこの台地に土地を与えられた藤堂高虎が、自らの旧領「伊賀国」に隣接していた「上野(うえの)」(現・三重県伊賀市)の地名を好んでいたことから、江戸の台地にも「上野」と名づけたという説が有力です。藤堂家の上屋敷がこの地に置かれたことが、地名定着のきっかけとなりました。
4. 寛永寺の建立で「東の比叡山」に
1625年(寛永2年)、天台宗の僧・天海(慈眼大師)が徳川家康の菩提を弔うため、忍ヶ岡の台地に寛永寺を建立しました。比叡山延暦寺が京都の鬼門(北東)を守るように、寛永寺も江戸城の鬼門封じとして置かれました。台地一帯は寛永寺の寺域となり、**「東叡山(とうえいざん)」**とも称されるようになります。
5. 「上野」の地名は寛永寺の山号にも入った
天海が寛永寺に与えた山号「東叡山」は、「東の叡山(比叡山)」を意味します。さらに天海は上野の台地を「上野(うえの)の山」と呼び、京都の「洛中・洛外」になぞらえた都市計画を江戸で実現しようとしました。上野の山は清水寺を模した清水堂なども造営され、「江戸の京都」として整備されました。
6. 不忍池(しのばずのいけ)と琵琶湖
上野台地の東側に広がる不忍池は、天海が京都の琵琶湖になぞらえて整備したものです。池の中央に弁天島を設け、滋賀・竹生島の弁財天を勧請しました。「不忍」という名前も「忍ヶ岡(しのぶがおか)」が由来で、「しのぶ(忍)が崎(さき)の池」が転訛したものとされています。
7. 上野戦争と彰義隊
1868年(明治元年)、上野の山は激しい戦場となりました。江戸幕府の残党・彰義隊が寛永寺に立てこもり、新政府軍と戦った「上野戦争」です。わずか一日で鎮圧されましたが、この戦いで寛永寺の多くの伽藍が焼失しました。かつて徳川家の聖地だった上野の山は、明治政府の手に渡ることになります。
8. 上野公園の誕生:日本初の公園のひとつ
1873年(明治6年)、上野の山は太政官布達によって日本最初期の公園のひとつに指定されました。これはオランダ人医師ボードワンが「この地を公園として残すべきだ」と明治政府に進言したことがきっかけとされています。廃仏毀釈で荒廃しかけた寺域は、市民の憩いの場へと生まれ変わりました。
9. 博物館・美術館が集まる「文化の杜」
上野公園が整備されると、1882年に上野動物園、1882年に国立博物館(現・東京国立博物館)、1914年に東京文化会館の前身となる施設など、文化施設が次々と集まりました。上野は「文化の杜」として知られるようになり、国立西洋美術館、国立科学博物館、東京都美術館など、現在も世界有数の文化施設が集中しています。
10. 上野駅と「故郷の玄関口」
1883年(明治16年)に開業した上野駅は、長らく東北・北関東方面からの列車の終着駅でした。高度経済成長期には集団就職列車の終点として、東北各地から上京した若者たちを迎え続けました。「上野は故郷の玄関口」というイメージは、井沢八郎の歌謡曲「ああ上野駅」(1964年)にも歌われ、昭和の記憶として多くの人の心に刻まれています。
高台の野原を意味するシンプルな地名「上野」は、忍ヶ岡の古称から江戸の鬼門封じの地へ、戦場から公園へと、時代ごとに役割を変えながら、今や年間数百万人が訪れる文化の中心地として東京に根を張っています。