「高松」の地名の由来は高い松の木?讃岐の城下町と栗林公園の歴史


1. 「高松」の語源:高い松の木が目印になった土地

「高松」の由来として最も広く受け入れられているのは、その字義通り「高い松の木」に由来するという説です。かつてこの地には際立って背の高い松の木が立っており、漁師や旅人が遠くから目印にしていたと伝えられています。「高い松が生える土地」という地形的・景観的特徴がそのまま地名となった例です。

2. 讃岐国の地名としての「高松」

「高松」の地名が文献に現れるのは中世以降のことです。現在の高松市を含む地域は古代から讃岐国(さぬきのくに)に属し、瀬戸内海に面した温暖な土地として知られていました。「高松」という名が定着したのは戦国期以降で、城下町として整備されていく過程で広く使われるようになりました。

3. 生駒氏による高松城の築城

高松の城下町としての歴史は、1588年(天正16年)に生駒親正(いこまちかまさ)が高松城を築いたことに始まります。生駒親正は豊臣秀吉の重臣で、讃岐一国を与えられて入封しました。高松城は海水を堀に引き込んだ「海城(うみじろ)」として知られ、現存する水城として全国的にも珍しい構造を持っています。

4. 「讃岐富士」と高松の地理的景観

高松市の西方にそびえる飯野山(いいのやま、標高422メートル)は、その美しい円錐形から「讃岐富士」と呼ばれています。この山を含む讃岐平野の平坦な地形の中で、高い松の木は際立ったランドマークになり得たでしょう。平野に点在する「讃岐七富士」も高松周辺の地形的特徴を今に伝えています。

5. 松平氏による城下町の完成

生駒氏が1640年(寛永17年)に改易された後、高松藩には水戸徳川家から松平頼重(まつだいらよりしげ)が入封しました。松平氏は水戸光圀(黄門様)の兄にあたります。松平氏12代にわたる統治のもとで高松城下は整備が進み、商業・文化の中心地として讃岐国随一の都市へと発展しました。

6. 栗林公園の造営と歴史

高松を語るうえで欠かせないのが栗林公園(りつりんこうえん)です。16世紀末から17世紀初めにかけて生駒氏が基礎を整え、松平氏の歴代藩主が約100年かけて完成させた大名庭園です。面積約75万平方メートルに及ぶ広大な池泉回遊式庭園は、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで三つ星を獲得し、国の特別名勝に指定されています。

7. 栗林公園に松が多い理由

栗林公園には約1400本もの松が植えられており、庭師たちが樹形を整え続けています。「高松」という地名の由来ともつながる松の存在は、この地の風土に深く根ざしています。かつて城下や海岸沿いにも多くの松が植えられており、「高松」の景観を形成する木として長く親しまれてきました。

8. 讃岐うどんと高松の食文化

高松は讃岐うどんの本場として全国に知られています。香川県全体がうどんの産地ですが、高松はその中心地であり、「うどん県」という愛称で観光PRをするほどうどん文化が根付いています。小麦の産地であること、瀬戸内海の煮干しだしが手に入りやすい地理的条件が讃岐うどんの発展を支えました。

9. 瀬戸内国際芸術祭と高松

高松港は瀬戸内国際芸術祭の拠点港として、直島・豊島・小豆島などアートの島々への玄関口になっています。2010年に始まった瀬戸内国際芸術祭は3年に1度開催され、過疎化した島々に現代アートを持ち込むことで地域再生のモデルとして国際的に注目されています。

10. 高松空襲と戦後復興

1945年7月4日の高松空襲では市街地の大半が焼失し、多くの歴史的建造物が失われました。高松城の城郭建築もこのとき被害を受けています。戦後は計画的な区画整理が進められ、アーケード商店街が発達した現在の高松市街が形成されました。高松中央商店街は全国でも有数の規模を誇るアーケード街として知られています。


「高い松の木」という素朴な景観の記憶から出発した高松の名は、生駒氏・松平氏の城下町経営、栗林公園の庭園文化、そして現代の瀬戸内アートへと、讃岐の歴史を積み重ねながら今に息づいています。