「下関」の地名は「上・中・下」の順番から?関門海峡の関所と西の果ての歴史


1. 「関(せき)」は関門海峡の関所

「下関」の「関」は、本州と九州の間に横たわる関門海峡の**関所(せきしょ)**に由来します。古代から中世にかけて、この海峡は瀬戸内海と日本海をつなぐ交通の要衝であり、航行する船を管理・徴税するための施設が置かれていました。この「関」が地名の核心です。

2. 「下(しも)」は西側・海側を意味した

日本語では古来、川や道の上流・起点を「上(かみ)」、下流・終点を「下(しも)」と表現する習慣があります。下関の「下」も同様に、京都(都)から見て西の方向、つまり遠い側・海に近い側を指しています。上方(京都)から遠ざかるほど「下」になるという方向感覚が地名に刻まれています。

3. 上関・中関・下関の三つの関所

周防国(現在の山口県東部)の海岸沿いには、古代から**上関(かみのせき)・中関(なかのせき)・下関(しものせき)**という三つの関所が順番に置かれていました。上関は現在の上関町、中関は現在の防府市付近、そして最も西に位置するのが下関です。三者の位置関係がそのまま地名になったのです。

4. 古い呼び名は「赤間関(あかまがせき)」

下関はかつて「赤間関(あかまがせき)」と呼ばれていました。地名の由来は諸説あり、「赤い間(土地)」や「赤馬(あかんま)」が転訛したとも言われます。平安末期の壇ノ浦の戦いを描いた記録にも「赤間関」の名が登場し、中世には「あかまがせき」が主流の呼び名でした。

5. 壇ノ浦の戦いが行われた海峡

1185年、源氏と平家が雌雄を決した壇ノ浦の戦いは、関門海峡のうち下関沖で行われました。安徳天皇と平家一門が海に沈んだこの戦いは、下関が歴史の転換点となった出来事のひとつです。「耳なし芳一」の舞台となった赤間神宮も、安徳天皇を祀るために下関に建てられました。

6. 「下関条約」で知られる歴史的舞台

1895年、日清戦争の講和条約である**下関条約(日清講和条約)**が、下関の春帆楼(しゅんぱんろう)で締結されました。交渉にはリー・ホンチャン(李鴻章)と伊藤博文が臨んだことで知られます。下関はアジアの近代史を動かした外交の舞台でもありました。

7. 「馬関(ばかん)」という別名

江戸時代には下関を**「馬関(ばかん)」**とも呼びました。「赤間関」の「関」だけを残し、音を変えた略称です。幕末に馬関海峡(現・関門海峡)で起きた長州藩と欧米列強の砲撃戦「馬関戦争(下関戦争)」にもこの名が用いられています。

8. 関門海峡の「門(もん)」は門司から

現在の「関門海峡」という名称は、**下関(関)と門司(門)**の頭文字を合わせたものです。関門トンネル・関門橋も同様の命名です。「関」が下関、「門」が福岡県の門司港を指しており、海峡を挟んだ二都市の名前が合体して地名になっています。

9. フグの本場として知られる理由

下関は**フグ(ふぐ)**の一大集積地として有名で、地元では「ふく」と呼びます。関門海峡の激流で育つトラフグは身が引き締まり、品質が高いとされます。下関ではフグを縁起物として「ふく(福)」と呼ぶ習慣があり、地名と食文化が深く結びついています。

10. 現在の「下関市」誕生は明治以降

現在の「下関市」という市制は1902年(明治35年)に施行されました。それ以前は「赤間関市」として1889年に市制が敷かれていましたが、わずか13年後に「下関市」に改称されています。古い呼び名「赤間関」から近代的な地名「下関」への移行は、明治という時代の転換点を象徴するものでした。


上関・中関・下関という三つの関所の最西端として名づけられた「下関」。関門海峡の要衝として古代から現代まで交通・外交・食文化の要となってきた地名には、日本と大陸をつなぐ海峡の歴史がそのまま刻まれています。