「お台場」の語源は?〜黒船来航に備えて築かれた幕末の砲台場〜
「お台場」の「台場」は砲台を据えた場所
「お台場」の語源は「御台場(おだいば)」、すなわち大砲を据えて防衛のために築いた人工島・砲台場にあるとされています。「台場」は「砲台の場所」を意味する語で、江戸時代には海防のために築かれた砲台陣地全般を指す言葉として使われていました。「御」は幕府が築いた公的な施設であることを示す敬称で、後に庶民の間で「お」に転じ、親しみを込めて「お台場」と呼ばれるようになったと考えられています。現在のお台場は当時の面影をほとんど残していませんが、第三台場と第六台場は現在も史跡として保存されており、幕末の姿を今に伝える貴重な遺構となっています。
黒船来航が建設のきっかけ
台場建設の直接のきっかけは、1853年(嘉永6年)にアメリカのマシュー・ペリー提督率いる黒船艦隊が浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫った出来事だとされています。この「黒船来航」は江戸の町にも大きな衝撃を与え、翌年には再び来航して回答を求めるとの予告を残して艦隊は一度日本を去りました。この間、幕府は江戸湾(現在の東京湾)が艦砲射撃の射程内にあることに強い危機感を抱き、江戸を守るための海防強化を急務としました。品川沖という江戸の目と鼻の先に砲台場を築くという決定には、それだけ幕府の焦りが大きかったことがうかがえます。
設計者は江川英龍(韮山代官)
台場の設計・建設を命じられたのは、伊豆韮山代官の江川英龍(えがわひでたつ、通称・太郎左衛門)だったとされています。江川は蘭学を通じて西洋の軍事技術を独学で習得しており、フランスの要塞建築理論を参考に品川台場の設計を行ったといわれています。彼は台場建設と並行して、大砲の鋳造に不可欠な反射炉の建設にも尽力した人物としても知られ、韮山に築かれた反射炉は後に世界遺産の構成資産にもなっています。また江川は兵糧としてパンの国内製造を試みたことでも知られ、「パン祖」と呼ばれることもあります。海防・兵器・食糧と、幕末の軍事改革を幅広く支えた人物だったといえるでしょう。
わずか1年半で11基を計画
幕府は1853年8月に工事に着手し、江戸湾に11基の台場を築く壮大な計画を立てたとされています。海上に石垣を組み、大量の土砂を投入して人工島を築いたうえで砲台を据えるという工事は、当時の土木技術としては極めて大規模なものでした。建設には多数の人足が動員され、資材の調達や輸送にも莫大な費用を要したといわれています。財政難と技術的な困難、そして限られた期間という制約の中で進められた突貫工事は、幕末の緊迫した情勢をそのまま反映したものだったといえます。
実際に完成したのは6基のみ
11基の計画のうち、実際に完成したのは第一・第二・第三・第五・第六台場と、試作的に築かれた品川台場を合わせた6基だったとされています。第四台場は工事の途中で中断され、後に撤去されたと伝えられています。第七台場以降は着工にすら至らなかったようです。当初の壮大な計画通りには進まなかったものの、短期間でこれだけの人工島を築き上げた土木技術は、当時としては驚異的な水準にあったと評価されています。
大砲は結局一発も撃たれなかった
台場はペリーの再来航(1854年)までに建設を急がれましたが、結果として大砲が実戦で使われることはなかったとされています。幕府は武力衝突を避けてペリーとの交渉を選択し、1854年に日米和親条約を締結しました。こうした経緯から、台場は「一度も戦火を交えることのなかった要塞」として語られることが多い施設です。しかし実戦を経験しなかったからといって無意味だったわけではなく、江戸湾防衛に対する幕府の姿勢を諸外国に示す抑止力としての役割は果たしたとする見方もあります。
明治以降は放置・埋め立てが進む
明治維新後、幕府の軍事施設だった台場は管理の主体があいまいになり、多くが埋め立てや解体によって姿を消していったとされています。周辺の埋め立て地開発が進むにつれて、海上に浮かぶ島だった台場は次第に陸続きとなり、かつての海防施設としての性格は薄れていきました。そうした中でも第三台場・第六台場は国有地として保存され、現在は国の史跡に指定されています。第三台場は「台場公園」として一般に公開されており、当時の石垣や砲台の跡を歩いて見学できる貴重な場所となっています。
「お台場」という呼び名の定着
「御台場」が「おだいば」と呼ばれて親しまれるようになったのは江戸時代後期のことだと考えられています。海上に忽然と現れた人工島は当時の庶民にとって物珍しい存在で、見物のために足を運ぶ人もいたと伝えられています。「御」を「お」に変えて親しみを込めて呼ぶのは江戸言葉に特徴的な用法で、「お江戸」「お城」「お天道様」といった呼び方と同じ発想によるものとされています。もともとは幕府の軍事施設を指す硬い呼び名であったものが、庶民の口に上るうちに柔らかい響きの地名として定着していった様子がうかがえます。
1990年代のフジテレビ移転で一躍有名に
現代的な意味での「お台場」の知名度を大きく高めたのは、1997年のフジテレビジョン本社移転だったとされています。丹下健三設計による球体展望台を持つ斬新な建物は開業当初から話題を呼び、続いてアクアシティお台場やデックス東京ビーチといった大型商業施設が相次いで開業しました。レインボーブリッジの開通や、新交通システム「ゆりかもめ」の運行開始も、お台場へのアクセスを大きく改善し、観光地としての発展を後押ししたといわれています。もともと1980年代のバブル経済期には、東京湾岸を新しい副都心として開発する構想も持ち上がっていたとされ、フジテレビの移転はそうした再開発の流れの中で実現した象徴的な出来事だったと位置づけられています。幕末には海防の最前線だった砲台跡が、百数十年の時を経てメディアと観光の一大拠点へと変貌したことになります。
「台場」は地名として各地に残る
砲台場を意味する「台場」という地名は、お台場以外にも全国各地に残っているとされています。函館の弁天台場跡、下関の砲台場跡など、幕末に築かれた海防施設の記憶が地名という形で今も継承されている例は少なくありません。「台場」という言葉に出会ったときは、開国を迫る外国船に対して、いかに幕府や諸藩が緊張感を持って海防に取り組んでいたかを思い起こすきっかけになるでしょう。ペリー来航への恐怖から急ぎ築かれた砲台場が、一発の砲弾も撃つことなく歴史の表舞台を去り、百数十年後には最先端のエンターテインメント都市へと生まれ変わる。「お台場」という地名の来歴は、幕末から現代に至る東京の変遷を映し出す縮図のような存在だといえます。