「水戸」の地名の由来は水の出入り口?黄門様と御三家の城下町にまつわる雑学
1. 語源は「水(み)の戸(と)」
「水戸」の語源は「水(み)の戸(と)」です。「戸」は古語で「出入り口」「通路」を意味し、転じて「川や海の出入り口、湊(みなと)」を指しました。那珂川が太平洋に注ぐ河口付近に開けた湊の地が「水の戸口」として「水戸(みと)」と呼ばれるようになったというのが、最も有力な説です。
2. 「湊(みなと)」と同じ語源
「水戸」と「湊(みなと)」は語源が共通しています。「みなと」は「水(み)な戸(と)」——水の戸口——が縮まった語で、港や船着き場を意味します。水戸という地名は、まさに「湊」を意味する言葉が地名に固有名詞化したものと言えます。全国各地に「○○湊」「水門(みと)」という地名が残っているのも同じ語源によるものです。
3. 那珂川が生んだ水運の要衝
水戸が発展した背景には、那珂川の水運があります。那珂川は茨城県北部を流れる全長約150キロメートルの川で、水戸付近で北東に向きを変えて太平洋(ひたちなか市)へ注ぎます。古くからこの川沿いに人々が集まり、物資の集散地として水戸の町が形成されました。
4. 水戸城は崖の上の城
水戸城は那珂川と千波湖に挟まれた台地の上に築かれた城です。天然の地形を巧みに利用した「平山城」で、石垣をほとんど使わず、深い空堀と土塁で守りを固めた珍しい構造です。現在、城跡は水戸第一高等学校などの敷地となっており、当時の大手門と薬医門が復元されています。
5. 徳川御三家のひとつ・水戸徳川家
水戸は江戸時代、徳川将軍家の親族で最高格式を持つ「御三家」のひとつ、水戸徳川家の城下町でした。御三家とは尾張(名古屋)・紀伊(和歌山)・水戸の三家を指し、将軍家に後継者がいない場合に将軍を出す家柄とされました。ただし実際に水戸家から将軍が出たことはなく、最後の将軍・徳川慶喜は水戸徳川家の出身ですが、一橋家の養子を経て将軍になっています。
6. 水戸黄門・徳川光圀の実像
「水戸黄門」として知られる徳川光圀(みつくに、1628〜1700年)は、水戸徳川家の第2代藩主です。テレビドラマのような全国漫遊はしていませんが、儒学を重んじる文化人・政治家として実際に名声を得ていました。「黄門」は中国の官職名「黄門侍郎」に由来する別称で、光圀が名誉職として与えられた「権中納言」の唐名(中国風の呼び名)です。
7. 「大日本史」の編纂は250年かかった
徳川光圀が1657年に着手した歴史書「大日本史」の編纂事業は、光圀の死後も水戸藩の事業として継続され、完成したのは1906年(明治39年)のことです。神武天皇から後小松天皇(南北朝合一)までを記した全397巻の大著で、完成まで約250年を要しました。この編纂事業が「水戸学」と呼ばれる学問の流れを生み出し、幕末の尊王攘夷思想にも影響を与えました。
8. 偕楽園は日本三名園のひとつ
1842年に水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)が造営した偕楽園は、岡山の後楽園・金沢の兼六園とならぶ「日本三名園」のひとつです。「偕楽(かいらく)」の名は「民と偕(とも)に楽しむ」という意味で、当時から領民に開放された公園でした。約3000本の梅の木で知られ、毎年2〜3月の「水戸の梅まつり」は100万人以上が訪れます。
9. 納豆と水戸のブランド化
水戸が納豆の産地として広く知られるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。水戸から江戸(東京)への街道沿いで売られた藁苞(わらづと)納豆が評判を呼び、「水戸の納豆」として全国にブランドが広まりました。実際には水戸独自の製法があったわけではなく、水戸街道という流通経路の地の利と、地元業者の積極的な販売活動が水戸納豆の名声を支えたとされています。
10. 「水戸」という地名は全国各地にある
「水戸」あるいは「水門(みと)」という地名は、河口や水の出入り口を持つ場所に全国各地で見られます。大阪府の「水門(みと)」、高知県の「水戸(みと)」など、同じ語源を持つ地名が日本各地に分布しています。茨城県水戸市の「水戸」もその一例であり、地名としての普遍性が語源の正しさを裏付けています。
水の出入り口を意味する「水戸」という名は、那珂川の河口に開けた湊の記憶を今に伝えています。黄門様の城下町として知られるこの地は、川と海が育んだ水運の歴史の上に成り立っています。